2015年1月19日月曜日

10 愛の法則から見たカップルにおける不実


愛の法則から見たカップルにおける不実

 
*カップルにおける忠実と不実についてはどうお考えですか?

 義務に対して忠実になることもできるし、愛情に対して忠実になることもできる。霊的には、愛情に対して誠実であることしか価値がない。


*それは、はっきり言うとどういうことですか? 

 パートナーとの関係で二人に愛情も類似性もない場合は、気持ちではなく、強制された約束のように、義務感から誠実であろうとする。だが、本当の愛があれば、忠実であろうとして努力しなくても、自然にそうなれるものだ。
 君たちは、司祭か判事の目前で署名をした結婚と呼ばれる契約は重視しているが、夫婦の間に愛が存在するかどうかは軽視している。だから、夫婦に愛がない場合であっても、あらゆる婚外交渉を―そこに真の愛が存在しようとも―非難する。そして、夫婦関係における不義をとやかく言うが、霊的に存在する唯一の不実は、感情における不実であると知らねばならない。
 別の人に恋愛感情を抱きながらもその気持ちを断念し、それが正しく善いことで天の掟と合致すると自分に言い聞かせるか、あるいは人から言いくるめられて、生涯にわたって愛のない結婚生活を送る人もいる。そういう人は、司祭が結婚式の日に厳かに言った「神が結び合わせたものを引き離してはならない」という誓いを守るために自己を犠牲にしたので、極めて不幸であるのだが、他人からは申し分のない道徳心とふんだんな徳を持った聖人のように見なされる。
 しかしながら霊的な視点では、愛の感情に対しての忠誠心しか霊的な価値がないので、違った見方をされる。そういった人たちは、彼らの社会規範や慣習上は、非の打ちどころのないイメージであるが、自己の感情に対して不実であるため、霊的進化においては停滞してしまっている。そのため、霊界に戻れば無意味な自己犠牲を払ったことに気づくだろうし、その次の転生では、今生勇気がなくてできなかったこと、つまり感情のために闘うべく、戻る必要があるのだ。
 一方、自己の感情をおざなりにし、自由に愛して幸せになろうとする人を非難することに悦びを覚え、強いられた結婚のしがらみに囚われて不幸になると満足するような、他者の感情を抑え込んでしまう者たちは、以後の転生においては、彼ら自身が、同じように利己的な者たちの抑圧的な態度の犠牲者となろう。
 その一方で、自己の感情のために闘って愛する者のそばにいるために、無理解・屈辱・恐喝・肉体的または精神的な虐待を受け、所属する社会や共同体、そして家族から不貞・不実・不道徳とされた人が、実は真に感情面で成長をしている人なのである。その人が、「魂の法則」の「愛の法則」と本当に調和している人であり、物質界で苦労して獲得した真の幸福を、霊界で味わうことができる人なのである。霊界に行けば、もう何の障害もなく、感情を自由に表現できるからだ。


*まだ理解できません。例で示していただけると、よりはっきりすると思います。

 よかろう。愛していない男性と結婚しているある女性が、別の男性と愛し合っていて、その人と一緒になりたいと思っているとしてみよう。
 そして二人の男性が共に―この場合は夫と愛人ということになるが―、その女性に性関係を求めているとする。この場合、君たちの世界の貞操の観念では、愛人と性関係を持つことは、夫に不貞を働くことになるので、悪いことだとされる。だが、夫とは性関係を持ち愛人とは持たないという反対の決断をすれば、彼女が愛しているのは愛人であり夫ではないので、自分の感情に対して不実であることになってしまう。


*さっぱりわかりません。それなら、婚外関係を持つのはいいことなのですか?

 思っている以上にわかっている筈だ。だが、疑問が残らないように説明しておこう。霊的には、地上の契約には人間が付与する効力以上の拘束力はないのだ。つまり、婚姻契約の履行のために―いかなる他の理由であろうと―誰かを愛するように強要されることも、その人への忠誠を強制されることもないのだ。
 実際には存在しない愛情があるふりをして、相手を騙すことが間違いなのだ。自分の気持ちに正直になって、その通りに行動するのが公正だろう。先の例においては、妻は夫を愛していないのだからそれを夫に説明して、隠すことなく愛する人と心の通う関係を築くために、愛のない関係に終止符を打つのが、理にかなっているだろう。
 一緒に婚姻届を出した相手やパートナーになる約束をした相手に恋愛感情がないことを知りつつ、便宜や必要上、または罪悪感や世間の反応を怖れるがために、関係を維持している人もいる。そのことについては、もう充分話したであろう。
 一方、誰を愛しているかを自覚しながらも、怖いのか楽だからか、愛する者と一緒になるために闘わず、苦しまずに済むようにその想いを抑圧して否定する方を選び、現世的に快適な関係に甘んじている者もいる。だが、そうしても、類魂との相愛という本質的な要素が欠けているので、充足できないのである。世間体を繕った生活をしているが、内面は虚しく、苦悩を押し殺している。
 自分の気持ちに正直になって、心の想いを反映させた人生を生きることだ。そうすれば、不毛な苦しみを避けることができる。愛の感情のために闘う勇気を持つのだ。それが唯一、努力し甲斐のあることだ。


*でも、自分の気持ちのために闘おうとしても、事情があってその目的を遂げることが不可能だということがありませんか? 先ほどの例だと、もし夫が別れることに承知しなくて、関係の維持を妻に強いたらどうなるのですか? 
 実際のところ、男性側が関係を断つことを認めないために、元夫や元パートナーに殺害されてしまう女性がいますよ。あるいは、自国の法律で離婚が禁じられていて、夫を捨てた妻に死罪が言い渡される場合などはどうしますか? そういう女性にはどんな選択肢があるのでしょう?

 確かに多くの困難に直面することだろう。それは、残念ながら君たちの世界では、特に弱者の感情面での自由が、全くと言っていいほど尊重されていないからである。
 だが過去の時代と比べれば、感情における自由はもっと大事にされるようになり、今では多くの国々の法律でも権利として採択されている。西洋諸国においては、離婚は権利として法律で認められており、性暴力から守ってくれる法規もある。それ以外の国々では、確かに我慢のならない状況で、まだまだ改善する余地があるがね。
 しかし、全世界を敵に回そうとも、闘う価値はあると言っておこう。
 愛の感情のために奮闘することは、霊的進化と幸福の基盤となるので、それに勝る動機は存在しないのである。愛のために闘うことを決意した者は、愛する類魂に再会する時に、至福という一番大きな報酬を得て、思う存分、愛を感じ味わうことができるのだ。人間の利己的な足かせのせいで、その試みにおいて肉体の命を失ってしまったとしても、またそのために物質界で成就できなかったとしても、今生で蒔いた種は霊界で褒美として刈り取ることができると確信すべきである。
 反対に、自分の感情を抑圧して否定して、そのための努力をせず、我慢して愛のない関係を保つことを自分に課した者は、勇気がなかったことですでに苦しんでいるが、今後の転生では、今生でペンディングとなった課題を克服しに戻らなければならない。