2015年1月23日金曜日

12 パートナーとの関係におけるエゴ的感情

―恨みと恨みつらみ(悔しさゆえの恋愛の逆恨み)について

 恨みは、我々に被害を与えたと見なす人に対する敵意として特徴づけられる、エゴ的感情である。人は自己愛や感情が傷つけられたと感じると、自分に痛手を与えた相手を害しても、それが正当化されると思う。相手に損害を与えれば、スッキリすると思うのだ。つまり、仕返しや報復の願望が存在している。
 人が恨みに駆られて行動すると、自分に危害を加えた人だけでなく、世の中全体を敵に回す傾向にある。恨みの感情がその人の意志を支配してしまうと、他の人たちから向けられるあらゆる言動の裏に、自分を傷つけるという隠された意図があると思い込んでしまう。恨みがましい人は、極度な人間不信になりやすいのだ。

 恨みの一種に恨みつらみがあるが、別れることを決めたパートナーに対する反感は、このケースにあたる。
 失恋を根に持つ人は、自分に所属していたものを失ったと考えるので、感情的に傷つけられたと感じ、その喪失を受け容れるのが難しい。別れた相手が苦しむことを願い、苦痛を与える行動をとりやすい。自分を犠牲者だと思い、不幸の原因だと見なす相手を傷つける権利があると思うのだ。つまり、「僕を苦しめた仕返しに、君を苦しめてやる」というのがモットーとなる。
 恨みつらみを持つと、犠牲者意識、名誉毀損、裏工作、恐喝、脅迫、強制、攻撃など、復讐に有効な手段はすべて利用する。
 そして、暴力や脅迫を行ったり、ありもしない虐待を受けたと告発して、共有していた財産を相手から奪い取ろうと考えるなど、元パートナーに損害を与える行動をとっても正当化できると思い込んでいる。
 共通の子どもがいる場合には、子どもを最後の切り札として使い、別れた伴侶と子どもとの関係を阻害しようとしたり、悪いイメージを作り出して子どもと上手くいかないようにする。
 元伴侶が新たな関係を築くと―特にそれが当人たちの別れの原因になったと見なされれば―新しい恋人も恨みつらみを抱く人の攻撃の対象となる。

*でも、自分のパートナーに捨てられれば、誰でも気分が悪いものではありませんか?

 人は破局によって、悲しみ、失望、欲求不満、孤独感、郷愁などを感じるが、そのように辛く感じることと、相手が苦しむのを望んでわざと行動することとは、全く異なることである。
 根に持つ人も、愛の感情が貧弱であることの反映だ。真に愛する者は、相手が理解することのできない決断をした時でさえも、絶対に自分の愛する人を傷つける行動をとらない。それが、恨みつらみとなってしまうのは、まだ、感情における自由を尊重することができていないからだ。感情における自由は、誰と一緒にいたいか、いたくないかを決める権利を各人に与えているのだ。それが尊重できれば、別れることになってもそれほど苦しむことはないし、他の人たちもそれほど苦しめはしない。

*恨みつらみは、どう乗り越えたらいいですか?

 すべての解決策は同じこと、つまり、執着心の克服と感情面の自由の尊重、に根ざしている。能動的な執着心と嫉妬心のところで言ったことだが、誰も誰にも属さない、ということを認識する必要がある。伴侶に対する所有権などは存在しないので、相手に代わって決断する権利はないし、ましてや、その気がない相手に関係の継続を要求するなどできない。それゆえ、相手に被害を与える行動は、どうしても正当化することができない。

―恋愛感情の強迫観念と妄想について

 恋愛関係における強迫観念は、目標とした人を獲得、または所有したいという満たされぬ願いを反映している。願望が簡単に叶えられる場合は、それが達成されるや、興味を失う。だが困難であると、それは一種の挑戦となる。欲望は煽られ、満たされないと、強迫観念に変わる。大概の場合、これは当人の本当の気持ちを表してはおらず、性的もしくは愛情面の欲求不満や必要性が投影されたものだ。そのため、強迫観念は現実性に欠いている。
 強迫観念は、自己の気紛れを満たすことに没頭して長く暮らしてきた、移り気な人たちに特有なもので、願望が達成されないと、我を見失ってしまう。
 また、自分の感情を表すことが苦手な自己抑制的な人たちも、恋愛感情の強迫観念になりやすい。願望の対象となる人に魅了され、その人について妄想を抱く。それは現実に則さないものなのだが、願望を強くし、相手を獲得できれば幸せになれるという期待を膨らませる。

*説明を聞く限りでは、ドン・キホーテがトボソ村のドゥルシネア嬢に抱く気持ちを思い出しますが。

 それは、妄想や恋愛感情の強迫観念がいかなるものかを示すいい例だ。
 妄想は、気持ちよりも頭を働かせるものなので、自分の考えることが感じていることだと信じ込むに至る。感情をないがしろにしているので、相手も自分を想ってくれているのかは気にかけない。拒否されるのが怖く、それを認める気がないので、正直に行動できない人である場合が多い。
 どんな対価を払ってでも、そして必要とあれば相手の意志を無視してでも、願望を抱いた人を獲得するのが目的である。そのため、堂々と自分の意思を伝えることがなく、相手に嫌だと言う機会を与えずに、欲しいものを手に入れるために狡猾に立ち回る。
 自分が肉体的に美しい場合は、誘惑すれば相手の意志と感情を曲げることができると思っている。頭がいい場合は、相手の弱みを研究し、その知識を使って、相手を口説いたり褒めたり、欲求や気紛れを満たしてあげて、手に入れようとする。このようなやり方で相手を獲得できない場合、その人の魂が鈍感ならば、恐喝、脅迫、強制、暴力など、相手の自由意志をさらに侵害する手段に訴える。

*望みの人を手に入れたらどうなるのですか? 二人とも幸せになるのでしょうか?

 いや、しばらくの間は望みのものを獲得できたという満足を感じているが、現実が期待したほどのものでなかったと見るや、大きな失望を味わい、急速にその関係に幻滅していく。以前は神や女神のように思えた、今やパートナーとなった相手は、ごく普通の平凡な人として目に映るので、次第に興味を失っていく。
 その関係が上手くいかないのを相手のせいにして責めるが、本当は、幻想だけで愛の感情がなかったことが不満の原因なのだ。それなのに、他の人が自分のパートナーに関心を寄せていると思うと、今度は所有欲を出す。それは、相手を苦労して獲得したトロフィーだと見なし、自分に所属していると考えているからだ。
 そうなると、自分たちの関係が幸福でないにもかかわらず、相手がそこを抜け出して別の場所で幸せになることも許さないので、自分が生きることもできず、相手を生かすこともできない。
 それはまるで、親に欲しいおもちゃを買ってもらえないと地団太を踏むのに、手に入れるとちょっと遊んだだけで飽きてしまう、我がままな子どものようだ。別の子どもがそのおもちゃを欲しがると、また興味を示すのだが、それはもう一度惹かれたからではなく、自分の所有物だと見なしているものを他人に譲りたくないからなのである。

*恋愛感情の強迫観念はどう克服したらいいですか?

 能動的な執着心、つまり愛には所有権がつきものだという概念を克服する必要がある。自分が愛しても相手がそうでないのなら、無理やりそれを変えてみせようとせずに、その現実を受け容れるべきである。人の感情とは自由なものであり、強要はできないし、またするべきではない。そうしても自分と相手を苦しめるだけだ。
 自己抑制的な人に強迫観念がある場合は、臆病と抑圧に打ち克ち、拒否を怖れて自分の考えを隠してしまわずに、常に正直に気持ちを表明する勇気を持つことで乗り越えることができる。そうすれば、自己の交友関係も本物となり、好きな人に対して幻想や妄想を抱かずに済む。相手に応えてもらえれば、その人との関係も自然なものとなるし、嘘をついたり裏工作をする必要もない。また、相手にその気がなくても、つき合えたかもしれないのにチャレンジしなかったせいで駄目だったのではないか、という考えに囚われることなく、心穏やかに新たなページを開くことができる。

―恋愛における罪悪感について

 これは人が、感じていない愛情を持とうと無理をしたり、自分の気持ちを抑圧するなどして、自分自身の感情の自由を強要した場合に起こる罪悪感である。受動的な執着心を患う人によく見られるものだ。
 恋愛における罪悪感が起こるケースの一例としては、カップルの一方が他方に恋愛感情を抱いていないことに気づいたものの、一緒になって年月も経ってしまったために、相手を愛して関係を維持することを義務付けられていると思う場合である。つまり、そうするのが自分の義務だと思って、伴侶に対してパートナーへの愛を覚えようと努めるのである。それには、相手を性的に満足させる、世話を焼く、一緒にいる時間を作るなど、パートナーに対してすべきであるとされる行為が含まれる。こういうことを全部するのは、相手を愛していないことに罪悪感を抱いているからで、自分に愛がないことを何かで埋め合わせすべきだと思い込んでいるからだ。
 恋愛における罪悪感が起こる別のケースは、ある人に恋をしたものの、同時に自分自身の道徳観から見て、それを不適切であると判断した場合である。その例としては、すでにパートナーがいる人を愛してしまった場合、または当人にパートナーがいる場合だ。この場合は、愛するべきではない「不適切」な人を愛してしまったことで罪悪感を抱き、不道徳、あるいは禁断だと見なすその恋心を抑圧したり、断念したりする。こうして自分自身で不幸になる道を選ぶ。

*すでにパートナーがいるのに、別の人に恋をしてしまった場合は、一体どうするべきなのでしょうか?

 その人が好きなようにすればいいのだ。だが、幸せになりたいのであれば、感情のために闘うべきである。

*それは、それ以前の関係を切って、愛する人と一緒になるべきだという意味ですか?

 愛のない関係は、愛が欠如しているという時点で、すでに壊れているのだ。ただそれを認めて、それに従って行動すればよい。前にも話したろう。伴侶を愛していないのであれば、正直になって、それを伝える勇気を持つことだ。そうしてから、正式にカップルの関係を終了させることだ。これは、他の人を愛しているか否かとは別問題だ。
 ましてや別の人を愛しているのであれば、自分の本当の気持ちを認めて、愛している人に伝え、相手もそう想ってくれているのかを見てみればよい。そして、相手がどういう決断をしようと、それを受け容れることだ。二人が相思相愛であり、カップルとして一緒になる意思があるのなら、誰にも何にもそれを妨げられないし、妨害すべきでもない。まして、罪悪感を持つ必要などない。霊的には罪悪感を持つ理由は何もないからだ。

*でも前述のような状況では、罪悪感が芽生えるのが普通だと思います。どうやって、恋愛における罪悪感に打ち克つことができるのですか?

 罪悪感を持ってしまうのは、君たちがカップルの愛を所有的または執着的なものだと誤解しているからで、所有権つきの結婚や婚姻の不解消など、同じように誤った道義上のルールを作り上げてしまったからだ。
 罪悪感に打ち克つためには、愛の感情は、自由で自発的なものなので強要できないしすべきでもないということと、どんな枠づけも意味を持たないということを理解する必要がある。人は誰でも、好きな人を自由に愛する権利を持つ。誰のせいでもなく、自分自身ですら、感じられない気持ちを抱いたり、感じている気持ちをなくすように自分に課すことはできない。我々はまたもや、感情における自由の尊重、という同じ原点に辿り着いたのだ。
 前述のケースでは、当事者の感情面の自由を尊重すべきであり、ありもしない犯罪行為に仕立てて不当に罰してはならない。人生をまるごと変える羽目になろうとも、真の愛の気持ちを持つことで、誰一人として罪悪感を覚えるべきではない。罪悪感という感情は、打ち克つことができなければ、愛の感情を存分に感じて味わうことを阻む障害となり、そこから湧き起こる幸福を享受できなくなる。

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