2015年1月14日水曜日

6 愛の法則から見たパートナーとの関係3

*それでは、精神的な便宜とはどのようなものですか?

 二人のうちの一方が、変えるつもりのない自分の利己的な性格な特徴のために、相手の精神的な側面が便利だと思う場合だ。
 たとえば、支配的で自己中心的な人には従順で素直な人がパートナーとして好都合で、気紛れな人にはサービス精神旺盛の人が便利、怖がり家には決断力のある人、怠け者には行動派、といった具合だ。

*でも、表面的に正反対の精神的な側面を持っていることは、悪いことではなく、助け合ういい機会になると思いますよ。たとえば、決断力のある人は、怖がり家のパートナーが怖れを克服する手助けをしてあげられるでしょう。

 問題は、性格の違いがあることではなく、自分のパートナーを、その人に愛情があるためではなく、精神的な便宜のために選んでしまうことである。
 怖れを克服したいのであれば、精神的な助けを求めればよかろう。もちろん、それをパートナーに頼るのもいいが、そのために相手を選ぶべきではない。
 こういうケースでは通常、カップルの二人は、精神的な支配関係か従属関係となる。この関係では一人は、相手から愛情ではなく指図しか貰えないので、隷属している感じになる。他方、相手側となる支配的立場の者、あるいは精神的に依存する側の者も、同様に苦しんでいるのだ。その人のエゴが満たされても、自分に愛がなければ虚しく、その関係に満足できないからだ。

*今度は、知的面での類似性について話してください。

 同じ嗜好、趣味、興味を共有する二人の結びつきのことだ。たとえば、同じ社会層、同種の仕事、似たような知的レベル、職業的または物的な期待度が同程度、スポーツやパーティ好きなど同じ趣味で楽しめる、などである。

*嗜好や趣味を共有して何が悪いのですか? 僕はそれはカップルにおいては自然なことで、望ましいことだと思いますが。

 嗜好や趣味を共有することは何も悪いことではない。ここで説明しているのは、パートナーを選ぶという決定は知的類似性に基づいてなされてはいけない、ということだ。そうすると二人は、感情面ではなく、知的面だけで結びついてしまうからだ。

*多くの人が、嗜好や関心の類似性はカップルとしての適性に大きく関係していて、適性がありさえすれば愛情も湧いてくると信じていますよ。たとえば、結婚相談所では、お客さんの理想の相手を見つけ出すために、嗜好・興味・願望などの項目の適性テストを行いますが、それは、そうすることで二人の親睦の可能性が増えるだろうと考えてのことです。

 そうしても、それは知的な類似性だけのことで、相思相愛になるわけではない。感情というものは確率のことなどわかりはしないし、あらかじめ計画もできない。
 各人が頭の中で考える「理想的な相手」という枠組みから外れていたとしても、愛情は、湧く時には自然に湧き起こるものである。「理想的な相手」とは、判で押したように、女性にとっては、背が高くハンサムでロマンチックな男性であり、男性にとっては、セクシーで金髪で情熱的な女性である。このようなものは、想像力をかき立てる頭の中の空想であり、愛の感情とは関係ない。もし、愛の感情が確率で決まるのであれば、相似の魂同士が結びつくことなどないであろう。その結合が偶然に起こる可能性はとても低いからである。
 知的面での類似性による結びつきは、表面的に上手くいく時期があるのだが、原因を特定するのが難しい内面の虚無感が生じてくる。頭で判断する外部の目には、幸せになるための必要条件が全部揃っているように映るが、幸福になるのに唯一必要となるもの、つまり愛の感情が欠けているのだ。
 
*次は、愛される必要性で一緒になる人たちのことを話しましょう。

 これはよく見られる理由である。一般的には、それまでの人生であまり愛してもらえなかったと感じる人たちや、(今生の以前で)自分が体験したと直感しているものの、今生で出会えていない愛を懐かしむ人たちに該当する。
 愛されたい欲求が大変強いため、人から関心を持たれてパートナーにしたいと言われると、とても感謝して、自分の感情を顧みずにすぐに承諾してしまう。通常、これらの人たちは自己尊重能力が低く、自分に魅力がないと感じ、誰からも愛されることはないと思っている。幸せになる権利などないと思っているのだ。
 これらの人たちの多くが、極度の愛情不足、寄る辺なさ、あるいは肉体的または精神的な虐待の状況など、困難な幼児期を送っている。当人がまだ自分の力で、抑圧的な家庭環境から逃れることができていない場合には、その耐え難い家族関係から解放されるための安全弁として、パートナーとの関係を利用することがある。

*ですが、愛される必要を感じることの何が悪いのですか? それは自然な感情で、すべての人につきものだと思いますし、愛されたいと願わない人はいないと思いますよ。

 愛されたいと願うこと自体は悪いことではない。確かにそれは、すべての魂にとって普通のことであるし、幸福になるための鍵が愛にあると自覚していることになるので、ある程度の進化レベルにいることの証拠でもある。
 問題は、その愛される必要性が強烈であると、自暴自棄や情緒的に盲目になって、心の空洞を埋めてくれる人を早急に見つけたいという焦燥感が生まれることだ。そうなると相手を選び急いでしまい、愛情が芽生える人ではなく、その場の誰をも自分のパートナーとして受け入れてしまう。また、愛情不足だと、情緒的に盲目となって、パートナーをありのままに見ることができない。その人を愛せる期待感から、相手を理想化してしまうことになる。

 こういう人たちの関係も、通常は支配関係や従属関係となりやすい。このような人たちの多くが息詰まる家族関係から逃れて、カップルとなった者たちだ。自己主張の強い支配的なパートナーに当たった場合には、従順になりやすく、相手に指図され卑しめられても容認してしまう。
 当人の情緒的な盲目、明晰さの欠如、逃避願望などが、以前の暮らしよりもひどいことはあり得ないと信じさせ、未知なるものを選ばせる。だが、新しい生活も、捨て去ろうとしたものと同じかそれ以下という結果となる。そして、より良いものを知らないためにその状況ですら正常であると許容し、元の家庭においてと同様の服従の役を担ってしまうことになるのだ。

 時には、多少なりとも原因を知った上で、パートナーを選ぶこともある。それまでの経験と正反対の性格を持った人、つまり優しく、穏やかで、寛容で心が温かく、自分を大事にしてくれるとわかる人を求める。この場合にはその関係は、父と子または母と子といった関係になり、両親から与えてもらえなかった愛情を相手に求めるので、伴侶はパートナーというよりむしろ保護者の役目を果たす。
 苦痛な家族関係から救われた人は、苦しい状況から助け出して守ってくれた相手に感謝し、借りがあるように感じるので、何とかしてその償いをしようとする。そして、その謝恩の感情がカップルの愛だと自分に思い込ませるに至るので、相互依存的な関係ができるのだ。

*この最後のケースでは、少なくとも幸せな結末を迎えますね。

 苦悩は少なくはなるが、相思相愛ではないので、このケースも幸福ではない。少なくとも一方には、ありがたく思う気持ちしかないので、それでは二人とも幸せにはなれない。一人は愛していないことで不幸であり、もう一人は愛されていないから不幸である。

*孤独を怖れて誰かと一緒になる人たちも沢山いると思います。孤独への怖れから相手を探す人たちも、愛される必要性、もしくは精神的な便宜からだと考えられますか?

 時には愛される必要性からであり、時には精神的な便宜からである。
 孤独を怖れる人の中には、愛される必要性がなく、精神的な便宜を求めている場合がある。特に歳をとると、老年や病気を心配して、人生の最後に身寄りなく過ごすのが嫌なために、自分の要求を満たしてくれて、暮らしを楽に、快適にしてくれる人を必要とする。
 だが別のケースでは、確かに孤独への怖れは、愛される必要性の表れである。

*今度は、愛する必要性に基づく結びつきについて、お話くださいますか。

 よかろう。このタイプの関係では、どちらか一方、または双方に、充分発達した愛する能力があり、それを表現することで、自己充足し幸せを感じようとする。この人たちも、内面では(前世の関係で)情熱的に愛した経験があることを直感していて、今生で出会えないその愛を懐かしむ人たちであることが多い。
 愛する必要性と愛する者を見つける必要性が強くなり過ぎると、愛される必要のある人たちの場合のように、愛を感じたいという欲求が自分の感情までを制覇してしまい、相手に対する気持ちからではなく、愛したいという欲求からパートナーを選んでしまう。

*でも、愛する必要性があることは何も悪くないのではありませんか? 愛する必要性がなければ、パートナーを見つけようともしないので、愛の感情も生まれないと思います。愛の感情を育むメッセージと矛盾していませんか?

 愛される必要性がある人たちの話をした時にも言ったことだが、愛する必要性を感じるのは何も悪いことではない。君がまさに指摘した通り、愛する必要性というものは、愛の能力と密接な関連がある。
 愛する能力が高い者は、沢山の人を愛すことができるが、それは誰にでも恋愛感情を抱けるという意味ではない。カップルとしての愛の感情は、誰に対してでも湧くわけではないのだ。

 問題となるのは、そういう感情になりたいという欲求から、感じてもいない気持ちになろうと自分を仕向けること、つまり、自分の気持ちを強いることだ。愛の関係における感情は強いることができず、自然に起こるべきものである。感情を強いることは、感情を発達させることと別である。ここで言おうとしているのは、無理な感情を持とうとするのは、幸せになれる代わりに苦しみを招くので、良くないということだ。
 愛する必要性に取りつかれている人も情緒的に盲目で、愛と愛する必要性とが見分けられなくなっている。恋をしているのだと自分自身に思い込ませるのだが、実のところは、愛を感じようと奮闘しているに過ぎない。しかも、愛の感情だと思っている自分の気持ちに、相手が応じてくれるのかもあまり気にしない。相手もそうだと信じ込むか、そうでなくても全身全霊でその人に尽くせば愛してもらえると自分自身を納得させる。相手は、自分の溢れ出る愛に抵抗できずに、最終的には愛してもらえると思ってしまうのだ。

*僕は、愛するということは、見返りを期待せずに与えることだと思っていたのですが、お話を伺うと、カップルの愛はその例外となるようです。相手にも応えてもらうという、交換条件があるみたいですから。

 それでも、本当に愛する者は、何の見返りも期待しないというのが真実なのだ。愛する人に感情面で応えてもらうことは強要できないし、両想いだったとしても、その気持ちを認めさせることも、一緒になるように強いることもできないからだ。要は、相手の意思と自由を尊重し、自分の心を捧げてはいても、「否」という返事を受け容れる心積もりが大切なのだ。
 そうは言っても、カップルの関係において幸せになるためには、双方ともお互いに愛が報われていなければならない。相思相愛でなければ、どちらも幸せになることができない。