2015年1月15日木曜日

7 愛の法則から見たパートナーとの関係4


*これまで、愛情ではなく様々な異なる要因でカップルになる例を説明してくださいました。肉体的な魅力、物的な便宜、精神的な便宜、知的面での類似性、愛される必要性、愛する必要性などいろいろでしたが、これらの動機は独立したものですか、それとも組み合わさることがあるのでしょうか? たとえば、ある人が相手に肉体的な魅力を感じていて、同時に愛される必要性も感じている場合もあるのか、ということです。
 
 ああ、もちろんだとも。事実上ほとんどの場合に、幾つかの動機が混ざり合っている。肉体的魅力は、ほぼすべての他の要素と組み合わさる。たまに無関心な人もいるが、生物学的な性本能はすべての人に備わっているからだ。
 実際には、魂の愛する能力次第で、どの要因が優先されるかが決まる。
 まだ愛を知らないために、それを評価できない未熟な魂であれば、肉体的魅力、物的便宜、精神的便宜、知的類似性、といった四つの動機が、様々に組み合わさって表れることが一般的である。
 より進化した魂の場合は、通常、肉体的魅力が愛される必要性や愛する必要性と組み合うことが多い。
 そして、中間層では、肉体的魅力、精神的便宜、知的類似性、愛される必要性、の中での組み合わせが起こる。
 また時には、これらの動機が同時に出現せず、特定の関係の異なる時期に生じることがある。たとえば、肉体的な魅力から関係を始めても、それに飽きると関係を維持するために、物的便宜や精神的便宜など、他の動機が際立ってくるのだ。


*それでは、物事が余計複雑になってしまいます。自分の気持ちを分析して、愛の感情と他の要素とを見分けることは簡単ではないと思います。たとえば、性的魅力が愛される必要性や愛する必要性と混ざった場合は、愛と必要性や欲求とを区別するのが難しいことでしょう。

 君たちの世界では、大多数の人たちにとって困難であろう。それは、君たちにはまだ愛の感情が明確ではなく、確固たるものがないからである。だが、進化の道程はそのため、言わば、経験したことから学んで本物とそうでないものを見分けるため、にあるのである。

*すべての愛の形が同じとも限らないのではないでしょうか。パートナーのことを大変慈しみ、とても仲がいいのに、セックスの必要性を感じない人もいます。この場合は、どういうことなのでしょうか?

 兄弟や友達に感じるような兄弟愛を相手に感じているということで、恋愛ではなく、カップルの愛とはいえない。感情を混同しているのだ。

*自分の感じる気持ちがカップルの愛なのかを、どうやって知ることができるのですか?

 言い争いやいざこざがなくても、完全には満たされずに、自分たちの関係に何かが足りないと感じる者は、まだ真の愛に巡り合っていない。類魂同志でなければ、カップルが申し分なく親和することはないのだ。二人の親和力のなさは、感情面、精神面、性的な面など、あらゆる分野に表出し、埋めることのできない内面の虚無感を生み出してしまう。
 人生において、類魂との愛を経験したことのある者であれば、それを簡単に識別できる。愛する者を思い出しただけで、魂が揺す振られ、満ち足りた気分になれるからだ。
 人生でまだその湧き起こる感情を体験していない者には、類魂を見抜くのにも迷いがあるので、霊的な直感を頼りにするしかない。今生での経験がなくても、相似の魂同士の愛の感情が損なわれることはないので、再び転生して過去の記憶が一時的に失われてしまったとしても、拭い去ることのできない痕跡が魂に刻まれて永続するからだ。
 この感傷的な直観力が、真の愛であるか否かを見極めてくれるものである。

*しつこくて申し訳ないですが、兄弟愛と双子の魂との愛をどうして区別しないといけないのでしょう? 自分の兄弟や子どもを愛してでは満たされないとでも言うのですか?

 自分の相手のことを兄弟のように思い、パートナーとして見ていない者は、それがカップルの愛といえないことをすでに知っているものだ。つまり、子どもか兄弟のように慈しんではいるが性欲を感じない場合や、性的な関係を持っても虚しさを感じたり、その関係に全霊を捧げようとは思えずに終わらせることができる場合、その人の感じている愛は兄弟愛なのだ。

*では、自分がパートナーのことを兄弟のように愛していることに気づいた場合は、どうしたらいいのでしょうか? その関係を続けるべきですか、終わらせるべきですか?
 

 幸せになりたいのであれば、自分自身と相手に対して、自分にある感情に対して正直になって、それに見合う行動をすべきだ。どちらか片方に恋愛感情がないと知りつつカップルの関係を維持することは、当人も幸福ではないし相手も幸せにできないので、無意味である。
 たとえば望まない性関係を持つことは、苦しみの原因となるが、相手にとっても欲求不満の元となる。その後味の悪さを避けようとして、セックスをしなくなるのであれば、それは兄弟の関係と、一体どんな違いがあると言えるのだろうか? 要は、その人はパートナーのことを自分の兄弟のように愛しているので、兄弟との間柄のような関係になるのである。自分の兄弟とはカップルの関係にはなれないので、カップルとして、その関係を継続することには意味がない。
 
*パートナーを兄弟のように愛すだけで幸せだし、誰もいないよりはいい、と言う人たちもいると思いますよ。つまり、あるもので満足しているのですが、これは正しい振る舞いでしょうか?

 ここで、正しいとか正しくないとかを話してもしょうがない。それより、真に幸福になれるか否かを話した方が良い。そのような状況で諦めてしまって、それで幸せだと思い込んでいる人たちがいるが、実際には違うので、自分を欺いているのだ。

*パートナーへの恋愛感情がないことを認めても、まだとても愛着があって、その絆を失いたくないがための精神的な葛藤から、相手と別れるというステップが踏み出せない人がいますが、これについてはどうですか?

 連れ合いに男女の愛を感じないことを認めても、必ずしもその人に反感を持つ必要はないし、またその人を人生から完全に閉め出す必要もない。単にその人に対する自分の感情の種類を認識して、人生が自分の気持ちに見合うものになるように行動するだけのことだ。
 友情があるなら、カップルの関係の継続を強いることなく、その友情を続けていけばよい。この現実を認めずに、自分の気持ちに釣り合わない関係を維持しようと無理すると、相手に対しての拒絶感が生まれてしまう。

*恋愛感情がないことを認めている人は大勢いますよ。自分としては別れたいのだけれども、相手を傷つけたくないので、関係を続けていく方がいいのだと言いますが、この点についてはどういうご意見ですか?

 愛していなければ幸せにすることはできないので、関係を長引かせれば、その人を傷つけてしまうだろう。実際は違うのに、パートナーとして愛しているのだと相手に思わせることは、相手を騙していることになる上に、関係を長引かせれば、相手は気持ちに本当に応えてくれる人を見つけることができなくなってしまう。そういう愛情の絆がない状況において、関係を継続させることは、破局を迎えるよりもダメージが大きい。それは世間の目を気にした虚偽の結びつきであり、双方に苦痛をもたらす無理のある関係である。

*これはカップルの問題なので二人が同意して決断する必要があると考えて、相手が関係の精算に反対ならば続けるべきだと思っている人たちもいますが、的を得ているでしょうか?

 いや、二人のうちのどちらか一方が関係を続けたくなければ、解消するには充分だ。パートナーがその決断に合意しているかどうかは関係ない。個人の自由意志の侵害となってしまうので、伴侶といえども、関係の継続を強いることはできないのだ。
 その論旨は多くの場合、自分から関係を終わらす勇気に欠け、相手に切り出してもらいたいという期待が反映した言い訳に過ぎない。

*そうは言っても、恋愛感情がないから関係を終わらせたいと相手に告げると、相手が非常に悪く受け取って、何が何でもその関係を続けさせようとする場合がよくありませんか?

 確かにそうだ。現実を認めようとしないのだ。その関係が楽で慣れているので、自分の生活に変化が起こるのを怖れてしまうのだ。未知の良いことよりも既知の悪いことの方がまし、といったところだ。
 その人の受けた教育も大きな影響を及ぼしている。伝統的な教育を授かった場合には、カップルが崩壊することは、特に結婚の契約が介在しているケースでは、自分の評判に傷がつく不名誉なことと見なすからだ。
 また、愛を装ったエゴ的な感情である執着や所有欲に冒されていると、パートナーのことを所有物だと見なす傾向にあるので、自分の持ち物を失うことを受容できない。幸せではないが、これまで要求が叶っていたせいか、自分に属すると考える馴染みのものを手放す気がない。

 嘆かわしいことだが、執着があるせいで、愛情の地位の変化を受け容れる気のある者はごく僅かしかいない。つまり普通は、パートナーから友達にされることを面白く思わず、立場の変化を拒絶や侮辱だと捉えるのである。相手の自由意志を尊重することができないので、犠牲者を装ったり、言いくるめたり、脅したりして、関係の継続を強要する。挙句の果てには、元のパートナーに多大な肉体的かつ精神的な苦痛を与えることさえあるのだが、それを見ても相手をほとんど愛していなかったことは明らかだ。
 多くの場合、元パートナーたちはそうされると、精神的、肉体的に攻撃されないように、一切のコンタクトを断つ羽目になり、一時は自分のパートナーであった人に二度と会いたくないと願うほどになる。

*今のお話から、パートナーの暴力的な反応が怖いために別れる勇気が出せない、という別のありがちな状況が思い浮かびます。関係を切れば、命が危ないと怖れる人さえいます。

 そう、嘆かわしいことに君たちの世界では、感情における自由があまり尊重されていないので、多くの関係が愛に基づくものではなく、刑吏と犠牲者とが一緒に暮らす、支配-従属関係となってしまう。そういう場合に、抑圧されている被害者が本来のパートナーに感じる気持ちは、愛ではなく怖れである。
 自分から別れを切り出したら、情け容赦なく猛追されると知っているので、恐怖から関係を切る決断を取ることができなくなる。しかも、加害者は多くの場合に、自分の犠牲者に心理操作をし、まだ愛されていると信じ込ませてしまうので、女性の中には別れることに罪悪感を感じる者もいる。

*性暴力の件数が増加したことは、家庭内での男性の女性に対する暴力が増えたことと関係しているのでしょうか?

 いや、暴力や乱暴は以前から、今と同じかそれ以上にあったのだが、夫が妻を支配しても法や社会規範で擁護されていたので、女性は従属の足かせを壊す勇気がなかったのだ。現在、性暴力のケースが目につくのは、特に女性を保護する法律が存在している国々において、搾取や虐待は許されないという社会意識が高まって、加害者から逃れる気概のある勇敢な女性たちが増えたからだ。
 虐待する側は、引き続き被害者を抑圧するのが不可能だと、拘束しようとして、より過激な行為に走り、殺害に至ることもある。

*自分の夫やパートナーに殺されるのを怖れて、関係を切る決意ができない女性がいることは理解できます。そういう状況の時には、どうするべきなのでしょうか?

 その関係を継続すれば、生きながらも死んでいることになる。その人の心の中では、そのように暮らすことは死よりもひどいことである。その試みの中で命を失ったとしても、虐待する者の横暴に屈して一生を棒に振るよりは、幸せになろうと自由を求めて闘った方がよい。
 誰にでも自由で幸せになる権利がある。自分自身の人生と感情に関して、自分以上の決定権を持つ者は存在しないのである。

*このような虐待の状況から、霊的には何が学べるのでしょうか?

 このような試練は大変過酷であるものの、感情の自由のために闘おうとする魂が勇気と一貫性を獲得するのに役に立つ。そして、感情における自由の権利を剥奪することは、人に最大の苦痛と不幸をもたらす原因となるので、誰からも奪ってはならないと気づかせてくれるのだ。

*中には、恋愛感情はないけれども、自分のパートナーに一度もひどいことをされたことがないので、別れようとは思わない、と言う人もいますよ。口論もしたこともなければ、暴力を振るわれたこともない、という礼儀をわきまえた関係のことですが、これについてはどうですか?

 往々にして、二人の関係を終わらすには、肉体的あるいは精神的な暴力がある、または相手の(麻薬、アルコール、ギャンブルなどの)中毒症により正常な共同生活が台無しにされるなど、正当化し得る不快な原因があるべきだと思われている。
 虐待されていなければ関係を切る筋合いはないという意見の人たちは、宗教的な伝統教育を受けていることが多い。そういう教育では、相手の暴力が唯一の離婚の口実として認められるので、双方に夫婦の愛情があるかないかにかかわらず、その関係を一生涯続けるべきだと感じさせられてしまう。しかしながら、それは違う。別れるには、カップル同志が愛し合っていないだけで充分である。