「愛の法則」から見た十戒
※ (注) 十戒とは、モーゼに率いられたイスラエルの民がエジプトから脱出した後、シナイ山で神から授かったとされる10の戒律で、旧約聖書では、申命記5章と出エジプト記20章に記載されている。プロテスタントやカトリックなど宗派の違いで多少内容が異なるが、「愛の法則」では、スペイン・カトリック教会の教義の十戒をとりあげている。
1. すべてに優先して主なる神を愛せよ。
2. 神の名をみだりに唱えてはならない。
3. 祝日を聖なるものとせよ。
4. あなたの父と母を敬え。
5. 汝、殺すなかれ。
7. 盗んではならない。
8. 偽りの証言をしたり嘘をついてはならない。
9. 不純な考えや願望を抱いてはならない。 (元来存在しない)
10.人の財産を欲してはならない。
1.神と隣人とを自分のことのように愛しなさい。
2.神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない。(霊性で商売をしてはならない)
3.少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい。
4.君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈 愛、尊重、理解を示しなさい。
5.どのような形であろうと、いかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。
6.望まない性行為を誰にも強いてはならない。(感情の自由を尊重せよ)
7.エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない。
(公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ)カトリック教会の十戒7・8・10の統合
7.エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない。
(公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ)カトリック教会の十戒7・8・10の統合
8.自由意志を尊重せよ。
9.霊的裁きの法則を尊重せよ。
10.
個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ。
旧約聖書の申命記と出エジプト記に書かれてある十戒(括弧内は原典のヘブライ語訳からのイザヤの解釈)
2.自分のために、偶像を造ってはならない。(神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい)
3.神の名をみだりに唱えてはならない。(神の名を、欺くために使ってはならない)
4.土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。(6日間は働いて7日目はいかなる仕事もしてはならない)
5.あなたの父と母を敬え。
6.汝、殺すなかれ。
7.姦淫してはならない。(売春してはならない)
8.盗んではならない。
9.隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10.あなたの隣人の家―妻、奴隷、牛、ろば、すべて―を欲しがってはならない。
*十戒(モーゼが神から与えられたとされる10の戒律)の元となったのは何ですか? 神自身が口述したのでしょうか、それともモーゼが発案したか、誰か別の人間が作ったのでしょうか?
神自身ではない、そうだとするのは言い過ぎだろう。しかし、君たちが十戒と呼んでいる最初のものが、高度に進化した存在たちによってモーゼに伝えられたのは確かだ。高度に進化していたがゆえに、彼らを神の使者だと考えてもらっても構わない。
*それらの存在は、どんな目的で十戒を伝えたのでしょうか?
その時代の人びとに、霊性とはいかなるものかという基本的な概念を与えるためだ。だが高次の存在は、何かを要求したり義務付けたりすることがないので、戒律というよりは助言であったと言った方がよい。それゆえ、それを十戒と名付けたのは間違いなのだが、君たちが聞き慣れているのなら、引き続きそう呼ぶことにしよう。
*真実であるものが少しでも残されたことに感謝します。
とはいえ、改ざんや改変、加筆などの標的にならなかったわけではない。
*そんなことだと思っていました。で、改ざんされたものはどれで、されなかったものは何ですか?
もしよかったら、一つ一つ見てみよう。歪曲されているものは、後世のもので歴然としているので、君たちにもわかることだろう。旧約聖書に書かれた内容と、カトリック教会で公認された十戒とを比較すればいいだけだ。
*では、最初の戒律から始めましょう。カトリック教会によると、それは「すべてに優先して主なる神を愛せよ」ですが、これは何をいわんとしているのでしょう?
これは良い戒律だが、エホバがモーゼに十戒を与えたとされる申命記(モーゼ五書の一書。十戒は旧約聖書では、申命記と出エジプト記に記載されている)では見当たらない。
これはむしろ、当時の律法学者に「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」と問われたイエスが、「第一の戒めは『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』であり、第二は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』である」と答えたことに由来する。
しかし、申命記においては、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。また自分のために、偶像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、あるいは地の下の水中にあるもの、いかなるものの形も造ってはならない。それらを拝んではならないし、それらに仕えてはならない」となっている。
*どちらが本物なのですか?
両方とも霊的に高次のものだ。モーゼのものは、その時代に頻繁に見られた多神教と偶像崇拝に対する風刺である。神が唯一の存在であること、そして、偶像を崇拝しても主たる神には届かないし霊性とも無関係であると伝えたのだ。つまり、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と告げている。
イエスのものは、神が唯一であることを認めた上で、より高度な要素が付加されている。それは、「神と隣人とを自分のことのように愛しなさい」ということで、「愛の法則」の要と言えよう。
*二つとも正しいのだとしたら、何が問題なのですか?
私には、何の問題もないよ。カトリック教会の十戒が申命記にも記載されていて、エホバが―ヤハウェと呼ぼうが構わないが―モーゼに告げた通りのものであると頑なに信じている者にとって、問題となるのだろう。でも、実はそうではないところに近世のペテンがあるのだ。
旧約聖書に書かれていることに的を絞って見るならば、第一の戒律はイエスのもので、モーゼのものではない。
*ではどうして、そのように変えたのでしょうか?
申命記の戒律では、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と人に告げている。しかしながら、よく観察すると、カトリック教会はこの掟に背いている。彼らは、多くの聖人や聖母、またイエス自身のあらゆる種類の、おびただしい数の像を崇拝することに力を入れているからだ。ルターのような宗教改革者にも気づかれたこの矛盾をなくす策の一つが、この戒律自体を削除して、他の体裁を繕えるものにすり替えてしまうことだった。
*なぜカトリック教会は、聖像を崇拝するようになってしまったのでしょうか?
これもすでに話したことだが、コンスタンティヌス皇帝以後のカトリック教会は、それ以前の宗教の慣習と儀式とを採り入れたのだったが、それらの宗教では神々への偶像崇拝が一般的だったのだ。この風習はローマ帝国の様々な地域において根強く残り、コンスタンティヌス帝が布告した強制的な改宗をもってしても、簡単に一掃できなかった。
しかも教会にとっても、この習慣を排除することは得策ではなかった。というのも、偶像やそれらへのお供え物を崇めさせておけば、人びとの気を逸らせておくことができ、真の霊的な価値観を問われることも、それに相反する彼らの利己的なやり方が問題視されることもなかったからだ。
こうして、過去の男性神の数多な偶像は、聖人やイエスのものに替わり、女性神の偶像は聖女や聖母のものとなった。除外されたものは、新しい宗教の聖像にするのが不可能だった、動物の像のみであった。
私の話が意外だとしたら、もっと時代が近い、似たような現象を見てごらん。アメリカ大陸が征服されて先住民は強制的に福音化されたが、未だに、先コロンブス文化の神々への崇拝と祭式が続いている。今では、かつての神々の名が、教会の聖人の名前に置き換わっているだけなのだ。
以上のことが、ユダヤ教徒が偶像を崇めない理由の一つになっている。
他方、カトリック教会もユダヤ教会と並んで、十戒を正式に認めると公言しているにもかかわらず、信者は偶像を崇拝しているのだ。