2015年2月16日月曜日

26 愛の法則から見た十戒 8

*第六番目の戒律は、「不純な行為をしてはならない」です。

 これも、時代と共に変化してきた戒律だ。カトリックやキリスト教の申命記の訳では、「姦淫してはならない」とある。

*どちらが正しいものなのですか?
 どちらも正しくはない。申命記に記載されているヘブライ語の十戒を見てみれば、この戒の最初の訳は「姦淫してはならない」ではなく、「売春してはならない」であると気づくだろうが、それは「望まない性行為を誰にも強いてはならない」というに等しい。
 取り決めによる結婚も、この戒律の及ぶ範囲だ。伴侶の一方に―通常は女性になるが―望まない性関係を持つことを義務付けるからだ。つまりこの戒は、婚姻関係があろうがなかろうが人に望まない性行為を強いてはならない、という意味である。
 この時代の女性や子どもの権利(特に子どもの)は無に等しく、彼らは、家畜に毛が生えたも同然の扱いを受けていた。
 女性は、特に最下層に属していれば、いたいけな幼少期から商品とされ、奴隷や娼婦として売買されて、お金を払うことができた者たちの低俗な本能をみたす道具とされた。女性が誘拐されたり強姦されることなど、日常茶飯事だった。戦時には、たびたび戦利品とされて、兵士に強姦されたあげく、娼婦や奴隷にさせられた。
 取り決め婚も日常的で、家族でさえも自分たちの娘をお金や権力がある人と結婚させることができると、いい取引をしたと思っていた。親の利益のために、少女が大人や老人と結婚させられたり、男児と女児同士の結婚も頻繁であった。子どもたちがまだ小さい頃や生まれる以前に、親同士の決断で婚姻が取り決められていたので、結婚の90%以上には、弱い方の伴侶の意志が反映されていなかったと言える。
 権力者や野心家は、より一層の富や権力を貯えるためや領地拡大の手段として、あるいは単なる気紛れから好き勝手な人を性的に所有できるように、婚姻を利用した。一夫多妻は普通のことで、富と権力の象徴であり、良いことと思われていた。
 これほどまでの搾取と屈辱を忍従させられていた、女性や少女たちの苦しみを想像してみてほしい。この戒律は、そのような搾取のすべてに歯止めをかけようとしたものだ。それなのに、ここでもまた人間のエゴが、犠牲者を刑吏に、刑吏を犠牲者にすり変えてしまった。なぜなら、すぐに罰せられるのは売春を強いられた女性たちとなり、売春を担ってこの掟に背いた、娼婦斡旋者、レイプ犯、強引に夫となった者、あるいは娘を売って商売した親などは、お咎めなしとなったのだ。

*この戒律を変えようとした動機は何でしょう? つまり、いつ、どうして、「売春してはならない」が「姦淫してはならない」になったのでしょうか。

 権力者が堂々とレイプや売春をしていれば、「売春してはならない」という戒律に違反していることが明白になる。政略結婚も一夫多妻制度も、代わりに妻や妾たちを扶養しなければならなかったものの、権力者にだけ許される人目を欺く売春や強姦の一種であった。実際のところ、この慣習はモーゼが生まれるずっと以前から、広く行き渡っていたのである。
 モーゼはそのような搾取の実態を知り、大変な憤りを覚えたので、聖なる助言を拠り所にして、その廃止を法令化しようとした。彼の生存中は、最も目にあまる乱用行為を止めることができたが、彼の死後は、支配者たちが彼らの都合のいいように、この戒律を解釈し始めたのだ。だが、戒律自体を変えてしまう度胸はなかったので、元の意味が曖昧になる新たな法律を発案して、それを付け足した。
 始めに、政略結婚や一夫多妻制や妾を囲うことが神の意に叶うことだというイメージ作りをし、結婚はそれ自体が聖なる制度であるとした。次に、不用となった妻たちの扶養義務から逃れるために離縁制度を考案し、この戒律自体の解釈を変え、売春していたのだと告発して、離婚を女性のせいにした。
 中には本当に、恋愛感情を抱く別の男性と性関係のある女性もいたが、それは、無理やり権力者の妻にされていたために、公にその人とつき合うことがならず、人目を忍ぶ恋をしていたからである。
 また他の女性たちは、離縁によって社会から完全に閉め出されてしまい、身売りをして生き延びるしか術がなく、虚偽の罪状を現実のものとして認める羽目になってしまったのだった。

 カトリック教会はさらに大胆で、最終的にこの戒律を改ざんしてしまい、配偶者を選ぶ自由は無視して、婚姻制度を最も重要なものとした。のちの時代の権力者たちも、エゴを満たす武器として政略結婚を利用し続けており、それを放棄する気がなかったからである。
 そのために不義密通という概念を導入し、掟の再定義に利用したので、この戒律は「姦淫してはならない」に変わり、婚外交渉を持つ配偶者を罰することが可能になった。だが、カトリック教の社会もユダヤ教のように男尊女卑が根強いので、実際に姦淫罪で有罪とされたのは女性だけで、男性は咎められることなく依然として二重生活を送っていた。


*お話にもかかわらず、最も信仰心の篤いとされる社会では、今でも取り決め婚は正常で神が喜ぶと見なされている、一般的な習慣です。これについて話されたいことはありますか?

 取り決め婚は、外見上「潔白」に見せかけているが、実は制度化された蹂躙形態である。この点に関して疑義が生じないように補足をすると、取り決め婚は、自分が選んでもいない相手と暮らして性関係を持つことを強要されるので、霊的な観点からは、自由意志の甚だしい侵害であり、人の感情を極度に屈折させるものである。
 しかも、言うことを聞かなければ神の計画に背く不純で汚い人だと思い込まされるなど、脅迫や恐喝の限りを尽くして隷従から逃れられないようにされるので、「神の名を、利己的な目的に使ってはならない」という掟にも違反することになる。

*それでは、不義密通は霊的に見て悪いことなのですか、どうなのですか?

 この件については、パートナーとの関係について話した時に幅広く扱ったが、霊的な次元では、自分の感情に誠実であるか否かが唯一の問題だと言った筈だ。それが、幸せへの鍵であるからだ。
 夫婦にお互いに男女の愛情があれば、自然に忠誠心が湧いてくるものであり、その無理強いはできない。
 世間のしきたりは、ここでは問題でないのだ。無理やり夫婦にされれば、強要された伴侶とセックスすることを嫌悪して、間違いなく大反発するだろうし、自分で選んだ人と交際して性関係を持ちたいと願うに決まっている。また、自分で決めた関係であっても、愛情がなければ不満を覚え、性欲が減退しセックスを拒否するかもしれず、別の関係で満たされない思いを埋めようとするだろう。
 このようなケースでは、不義または密通と呼ばれるものは、夫婦間に男女の愛がないことを反映している。そのような夫婦は、我慢しているか、愛のない関係を強いられているかで、家庭の中に見出せない愛を外に求めているのだ。
 ラテン語源学上では、「不義密通」という言葉[adulterio]は、物の品質や純正さを異物を混ぜて変化させてしまうことや、真実を偽ったり改ざんすることを指す「偽造する」という語[adulterar]から派生している。
 これらの意味を知ることで、不義密通という言葉の霊的な定義がわかりやすくなる。不純な関係とは、二人が外見的には愛情があるふりをして一緒になっておきながら、本当はそうでない場合である。つまり、愛のないカップルの結びつきは、演出された偽りのものであり純粋ではない、ということだ。
 パートナーとの関係が相互の愛の感情と類似性に基づいていれば、霊的な定義においても現世的な意味においても、不義密通は存在しなくなる。愛する者と一緒にいれば、性関係も真に満たされたものとなるので、性欲を満たすために別の関係を求めようとしなくなるからだ。
 だが、これが実現するためには、感情においての自由がなければならない。よって、人間がこのことを理解できるまでに進歩した今日においては、この「売春してはならない」という戒律は、「感情の自由を尊重せよ」に置き換えられると言っておきたい。別の言い方をすると、すべての人は、誰とカップルになりたいか、またはなりたくないかを、性的な関係を持つことも含めて、自由に選ぶ権利があり、何者もこの権利を侵してはならないということだ。それゆえ、誰も、望まない相手と一緒になることを強要されはしないし、嫌な関係をずっと続けるように強いられることもない。

*教会で褒め称えられている婚姻非解消主義はどういう位置づけとなりますか?

 前にも言っただろうに。署名入りの結婚契約書の有無にかかわらず、確固とした愛情がある場合には、夫婦の関係は自然に続いていくのだ。継続を強制することは、自由意志の侵害になってしまうので、してはならない。
 婚姻の不解消は神聖な法律ではなく、人間が考案したもので、モーゼもイエスも関係ない。事実、これは、イエスが地上にやって来てから千年以上も経って、導入された規則である。歴史を復習してみるがいい。キリスト教徒のローマ皇帝が支配していた間はずっと、離婚は合法であった。キリスト教徒の皇帝の時代の民法では、離婚後に再婚することを認めていたのだ。ローマ帝国が解体して誕生した国家も全部が、離婚を有効としていた。
 キリスト教国家で婚姻非解消主義を推進したのは、法王グレゴリオ9世(在位: 12271241)である。彼は、当時の皇帝や王族と敵対していたために、彼らが頻繁に妻を取り替えているのを見て、法令を出したのだ。

*それでは、離婚しても天の法則に違反することにならないのですか?
 
 もちろんだ。その反対に、自由意志の行使と感情における自由を選択できるので、良いことだ。先にも言ったが、望まない関係を続けるように強要される者は一人もいない。それに霊界は、人間の自由意志や感情の自由の妨害などしやしない。

*離婚が増えているのは、夫婦間の愛情が減ってきているからだと解釈する人がいますが、そうなのでしょうか?

 いや、そうではなく、もっと自由に関係を切れるようになったということで、満たされない関係を終わらせることに、心の咎めを感じなくなったことの反映である。
 以前の方が離婚が少なかったとしても、関係が良好であったからでも、もっと愛があったからでもない。そうではなく、法律で離婚が認められていなかったためか、合法であっても抑圧的な教育を受けたせいで、多くの人たちが、愛がなくてもその関係を継続させねばならないと感じていたからである。

*「売春してはいけない」という戒律の話のついでに、霊的な視点からは売春をどう見ているのか、ご意見いただけますか?

 売春は、感情の発達の成長が乏しいことを反映している。進化した魂ならば、愛のない性関係など理解できない。また、二人の合意がない場合は、なおのこと受け容れがたい。
 売春で性欲を満たそうとする者は、感情が貧しく、愛の感情や感受性よりも本能に支配されている。

*でも売春はどのように法令化すればいいのでしょうか? 合法化すべきでしょうか、禁止するべきでしょうか?
 
 未成年が関係するものは、全部禁止すべきである。斡旋業者も客も―このケースでは小児性愛者になるが―追及されるべきで、未成年者は二度とそのような搾取をされないように保護されなければならない。
 成人の売春に関しては、強制されたものを禁ずるべきである。つまり、売春をする者が、そうするように何らかの方法で、強要されたり圧力をかけられる場合である。これは自由意志の侵害となるので、司法は売春を強いた者を追及すべきであるが、強制的に身売りさせられていることを客が知っていた場合は、客も同様に処罰されるべきである。そして、それ以上の痛手を受けないように、身売りさせられていた者を保護しなくてはならない。
 誰も経済的な理由から売春をせずに済むように、政府も、経済的な糧のない人たちを支えようとすべきである。他の選択肢がなくどうしようもないので、自分や家族の食い扶持を稼ぐための最終手段として売春に訴える者がいるが、そういう売春では、社会そのものが共犯者なのだ。
 しかし、家族を扶養する必要もなく、充分な自己決定能力がある人が、自発的に身体を売ることを自分自身で決意した場合には、それを禁ずることはできない。このような決断自体が、当人の内面の乏しさを映し出しているとはいえ、その人は自分の意志でそうするのであり、客がそれを強要して犯罪に加担したわけでもないので、この場合は自由意志の侵害の対象とはならない。
 また、売春を完全に禁止しても、かなり原始的な性本能を満たす需要が多く、自由意志を尊重できない君たちの世界の現状では、それを根絶することはできないとつけ加えておこう。むしろ、その結果、強姦や性的虐待のケースが増えて、売春も秘密裡に行われることだろう。よく考えてみれば、君たちの社会で自ら売春に従事する人たちは、多くの強姦や性的虐待を防いでくれている。それがなければ力づくで性欲を満たそうとする、進化の遅れた大勢の魂の低級な本能を、自分から進んで満たしてくれているからだ。
 それゆえ、君たちの世界では、強制的には売春を排除できないだろう。そうすることによってではなく、人類が感性を充分に発達させて、性欲が生物的な本能を満たすものから、男女の愛の想いを表現するものに変わった時に、売春は自然となくなるだろう。そして、これを達成するためには、人間が感情と性的な面で、自由を獲得していることが外せない。そうなれば、性的な関係も自然なものになり、それが商売や搾取の目的に使われることもなくなるのだ。